
“それ”を私は憧れる。けど。想像するだに面倒くさい・・・。
“それ”とは「何かを受け継ぐ」こと。受け継ぐ何かは「歴史」とか「想い」とか「伝統」とか「技術」とか・・・。書いている先から既に面倒くさい思いも同程度に湧いている次第なのですが(どないやねん)、それでも憧れだけはたっぷりと、ある。ありあまる。思うだけならば幾らでも、ですね(笑)。
「覚悟」とは、やはりどんな場合もカッコイイ。
そして本物の覚悟には、対価として「歓び」が伴う。かなり手応えのある歓びが、セットとして用意されている。神さまの粋。人生の醍醐味。
例えば就職、例えば結婚。それらには必ずといっていいほど「覚悟」&「歓び」が盛り込まれている。「覚悟」の度量が大きければ大きいほど、もたらされる「歓び」も充実をふんだんに含んでいる。
けれどやはりその「覚悟」の向こうに待ち構えているものは、並大抵のものではない。自意識を抑え、身を削ることをいとわない強さが必須となる、そしてそれを受け入れられる器の大きさこそが、人間性の大きさ。今風に表現するならば人間力? いずれにしてもオトナとしての生き様が欠かせない要素になりますよね。いやはや、幾つになっても気の重い命題です(苦笑)。
多くの人が(と書くと幾分偏った印象になりがちですが)、生まれ育った町で定められた学校に通い、そうゆうものだからと日々通学と勉強にいそしみ、望むと望まないとにかかわらず時が経てば卒業の日を迎える。誰しもが(と断言してはいけないとは思いますが)なんとな~く日々を過ごし、何を想うでもなく通った学校を巣立ってゆく。「母校」という言葉や感覚が芽生えるってことは既に、自分の通った学校に強い想いが湧いている心境だと思うのですよね。ましてや自分が「学校の歴史」などという大きな流れの一部を担っているのだ、なんて大層な感慨は、よっぽどのことがないと湧いてくるものではないと思います。
けれども。
間違いなく「一部」なのですよね、自分たちはどこかの歴史の。
それは本当に、誰しもが必ず、そうである。
間違いのないこと。抗おうたって抗えない、どうであっても「何か」の「一部」。それだけは、例外なく誰の身の上にも起こること、なんですね。
ただ、覚悟するかしないか、の違い。
そしてやはり、覚悟した人は、カッコイイ。
まぶしく輝く。
だからこそ(本能的に)、強く憧れるのでしょうね、「覚悟」ってことに。