代表者

代表の西山です

弔辞の森では、弔辞・おくやみ文の原稿作成、用紙への筆書きサービスをご提供しております。もし弔辞作成にご不便をお感じでしたら、お気兼ねなくご連絡ください。丁寧に、温かくご対応させていただきます。

代表者 西山


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葬儀委員長の挨拶(弔辞)〜前編「故人の人柄に何を思う?」


私たち弔辞の森は、お客様の大切な原稿をカンタンにつくりません。

なぜなら、故人との永遠の別れの日である葬儀において、自らの思いを述べる大切な内容だから、お客様以上にこだわりたいからです。


私たちはかならず、お客様にお電話でお気持ちをうかがいます、それも長い時間をかけて。メールやファックスだけでは済ませないんです。これらは便利だけれど、弔辞原稿の作成においては、あやまり役に立たないと思ってるんです。必要なのは心の細やかな動きなんです。


お電話でのお客様とのやりとりの一部をお見せします。心の機微を察しようとする聞き手と、真摯にお気持ちを述べるお客様との会話によって、故人と故人をとりまく景色が、きっと見えてくるはずです。


今回のケースは葬儀委員長の挨拶(弔辞)です。

たいへん長くなっていますので、2回に分けてご覧いただきたいと思います。

そして最後には、弔辞の森が作成した原稿もご覧いただけます。



前編「故人の人柄に何を思う?」



――故人様のお名前をお願いします。

田吉太一郎です。


――会社様のお名前をお願いします。

フードロール株式会社です。


――享年はおいくつですか?

年齢は74歳です。


――お亡くなりになったのはいつですか?

今月の8日の日曜日です。


――ご葬儀は社葬と家族葬を兼ねたものということですが、正式な名前などは付けていますか?

田吉家、フードロール食品株式会社合同葬です。


――水野様が葬儀委員長ということですね。

私が代表で葬儀委員長も兼ねています。


――お通夜当日とご葬儀当日に来られる方の内訳ですが、家族葬も兼ねているということは、一般の弔問の方もいらっしゃいますか。

両方の受付をとるかたちです。


――会社関係の方もかなりいらっしゃる予定ですか。

ほぼ会社関係者です。


――お亡くなりになった直接的な理由を教えてください。

確定はしていないのですが、恐らく死因は肺炎です。


――故人は会長ということですが、実際に仕事をしていた実態のある会長でしたか?

もう引退してるかたちで、名前だけ取締役会長としていましたので、実務はほとんどやっていません。


――故人が会長になって、水野様が代表者になられたのはいつですか?

一昨年の12月1日です。


――ということは、この1年ちょっとは、仕事をしていない状態だったのですね。

自宅で老後を過ごしていて、ほぼ実務はしていませんでした。いろいろありまして、4年前に一度私が代表になったときに故人は引退していたのですが、また復帰していただいて、少し空白があったのですが、また会長に再任しました。診断書には死因は肺炎と書いていましたが、実は、若いころから糖尿病を患っていて、恐らく合併症を起こしたのだと思います。数か月前ぐらいからは認知症傾向もありました。


――会長に退かれたときには体調は思わしくなかったのでしょうか。

そのときは、まだ元気でした。去年の夏過ぎぐらいから、合併症で歩行が大変であったり、少しぼけてきたような兆候が少しずつ出てきました。年末の12月からは、かなり合併症の影響が出てたのか、急激に認知症が進行していたようにうかがえました。それはスタッフには知らせておらず、本当に近親な者と私ぐらいしか知りませんでした。本当の原因が分かったのは12月の下旬です。認知症検査を受けて、これはやばいということが分かったのは、もう暮れのことでした。


――ぎりぎりのときにということですね。

会長は大学のときに空手部の主将をやっていて、昔から非常に忍耐力が強く、我慢強い人でしたので、自分で苦しい、つらいといったことをあまり言いませんでしたから。


――故人はフードロール食品様の創業者ですか?

創業者です。


――もう長らく社業に関わってこられてということだったんですね。

63年3月に会社を設立してから、来期で30周年を迎える1歩手前だったのです。


――水野様はお身内様ですか?

違います。私はただ社歴が長いということで代表になりました。故人とは社歴で二十数年ご一緒させていただいている間柄です。故人のお身内は複雑な家庭でして、故人と前妻の息子である、他社に行っている長男が喪主を務めます。


――この二十数年を振り返っていただいて、故人の職務に対する姿勢、立ち振る舞いは、どういう方でしたか?

74歳で体育会系、ましてや空手部の主将をやっていたぐらいですので、頑固一徹で、仕事はまっすぐですし、曲がったことが嫌いという方でした。昔スタイルの営業といいますか、教育方針などもなく、振り返ってみると教わったことは一つもありません。常に叱られてばかりいました。


――厳しい方なのですね。

自分の背中を見て盗め、覚えろ的な、そういう人でした。


――そういう意味では、会社全体としても体育会系だったのでしょうか?

そうですね。会長の大学の後輩も2人ほどいましたから。


――継いでいくのが難しい雰囲気でしたか?

それはあります。今で言うと、完全にパワハラで訴えられるぐらいの厳しい方でした。私が入社した当時は、部屋に入った瞬間に故人がテーブルの上に足組んでいて、テーブルの横には竹刀と木刀が置いてあるような、どこかの組の部屋のような雰囲気でした。フードロール食品は埼玉にあるのですが、私も最初は田舎の別の肉屋に入って、そこから営業担当のようなかたちで会社に間借りで行かせてもらい、2年後には転籍しました。仕事の内容は田吉会長の小間使いのようなかたちで、運転手をしたり、仕事は見て盗めというスタイルで言葉も少なめでしたし、とにかく、かばん持ちをしてたような関係です。


――それでは社内外の故人に対する評価はプラスとマイナスにくっきりと分かれて、差が大きいのでしょうか?

そういうのもあるかもしれません。ただ、体育会の主将やってるような方なので、人望もありますし、一方では情深い方でした。


――大正、昭和の良い空気を持っていらっしゃる方ということですね。

そうです。色男で男気もあり、非常に魅力のある方でした。


――そうしますと、内外で大きな存在の故人が代表取締役社長を退くということは、非常に大きな出来事だったのではないですか?

大きな出来事でした。そのときは、いろいろあったと思います。


――社長を退かれた理由は体調が原因ですか?

違います。4年前に、そういうタイミングあったときに、一旦退いたのですが、海外の事業の件でいろいろとトラブルがあった際に、私がその首謀者だったので責任を取って代表を降りたのです。そのときに会長に、もう1回社長に戻ってもらえませんかとお願いしました。そして私自身は1から出直して、復帰の機会もいただきました。


――そうなりますと、故人が水野様に全部、お任せするということがあったのですね。

ありました。


――そうしますと水野様の思いとしては、これからの仕事ぶりを見てもらいたいと思っていた矢先だったのですね。

そういうことです。それと、やはり年齢差もあるじゃないですか。私は今年で45歳なのですが、長男が40歳で、前妻の娘も私と同い年です。そういう年齢差のなかで、今、ワンクッションを置くということもあったのだと思います。


――水野様は、すごくお若くいらっしゃるのですが、たとえば水野様の先輩といいますか、50歳代や60歳代で、会社を率いる方って、他に社内にいらっしゃらなかったのですね。

実は何人も候補者はいたのですが、会長の頑固一徹な性格や男気に合わずに皆さん辞めてしまいまして、私が最後まで残りました。


――お若くして創業者の後を引き継ぐということは、骨の折れる仕事ですね。

そうですね。


――フードロール食品様は、どういったお仕事をされているのですか?

裏方の仕事で恐縮なのですが、一般的な食品の卸売業です。他社と違うのは、クライアントと製造メーカーとの間に立っているなかで、クライアントのいろいろな要望やニーズにお応えして、メーカーに変わって企画をしモノをつくる、そういった設計の会社です。


――水野様の思いとしては、会長がお亡くなりになったときの感情としてはいかがでしたか?

私も親父が数年前に亡くなったのですが、会長は私の本当の親父みたいな感じです。小さい会社だったのですが、父親みたいなかたちでくれていたのが非常に印象的でして、息子と同じような気分ですね。


――会社様にとって創業者がいなくなるということは非常にインパクトが大きかったと思うのですが、水野様だけではなく他の従業員さまも含めた会社全体としての動揺はありましたか?

ありました。


――すごくショックが大きくてということですね。

会長は學桜舎大學の空手部だったのですが、學桜舎の後輩を2人社員として呼んできていました。その2人は特につらかったでしょうね。日曜日の夕方にご逝去して、休み明けの火曜日の朝礼時にみんなに伝えたのですが、無言でした。その日の夜に、行けるメンバーで安置所に連れて行ってほしいと言われて、連れて行ったときには、特に2人は号泣していました。そのあと、8人ぐらいで酒でも飲みながら見送ろうということになったのですが、会長の思い出話でかなり盛り上がりました。ただ、平均年齢的には若い会社で、50代はいません。実は今の奥様がいるのですが、いろいろあって喪主をしていません。


――74歳のご年齢の方で、当時の學桜舎大學の空手部っていったら、本当にバリバリですね。

全国の空手選手権に出た、一番最初の初代みたいですね。全盛期の始まりと言っていました。


――故人はすごい迫力の方だったのですか?

かなり、近づきにくいような感じの人ですね。


――思い出深いことがたくさんあるなかで、いよいよこんな日が来てしまったかということですね。

身内の人たちは、体調のこともそれなりに分かっていましたので、いずれはという覚悟はしていました。本人は、みんなに迷惑かけないでころっといっちゃうよなんて冗談交じりで言っていたのですが、まさか、本当にそれを実現されるとは思ってなかったくらい唐突だったので、皆そのギャップに耐えられない状況です。会社にはもう半年以上は顔も出してなかったので実務上の影響はないのですが、いまだに私も心の整理はついてないですし、皆、葬儀までは張り詰めた思いでいると思います。取引先もみんなそうですね。



後編に続く

※ここで登場する人物や社名は架空のもので、実際のやりとりを想定して作成したものです。


なお、このインタビューを元に作成した原稿は下記でご覧いただけます。
葬儀委員長の挨拶 例文(合同葬だが実質は社葬)




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