友人代表の弔辞で見えてくるもの。
弔辞の代筆専門「弔辞の森」が、実際の作成の経験をもとにアドバイスをお送りするシリーズ。
今回は、
若くして逝った友人への弔辞に見えるもの
です。
平素、私どもで作成をしている中で、友人代表の立場での規則性と言いますか、見えてくるものがあります。
友人の享年(なくなった年齢)によって、弔辞を述べるあなたの感じ方はかなり異なるのでは、と。
たとえば、友人が90歳である場合と30歳である場合とでしたら、どうでしょう。何が違うでしょうか?
年齢の違い?
はい、そうです。かなり年齢に違いがありますね。ですがもっと正確に言うと、「今後残っていたかもしれない時間」です。
実際問題として、90歳というご年齢は、すでに多くの時間が経過しており、また、今後20年、ずっと元気にいらっしゃるかと言えば、その可能性は高くないことが想像されます。
「90歳だと大往生よね」なんて、近所の女性同士の井戸端会議で話されていそうな気がします。
友人から見れば、もうすでにたくさんの時間を故人と共有をしてきたわけです。(もちろん、故人といつ出会い、友人と呼べるようになったかにもよりますが)
いっぽう、30歳でしたらどうでしょうか。
早いです。間違いなく早いです。
仮にあなたと友人とは中学の同級生としましょう。あなたから見れば、まだ30歳ですよ、お互い。それなのに別れが訪れてしまった。これから仕事のことも話したかったでしょうし、結婚のこととか子供のこととかも話したかったでしょうし、旅行にも一緒に行きたかったでしょうし。
つまり、本来、共有できるはずだった30歳以降の友人関係としての時間が、逝去したことによって一気になくなってしまったということになります。
故人の訃報に接したときの悲しみや悔しさ、むなしさを構成するものの一つとして、この「本当は一緒に見ていくはずだったこれからの景色を、一緒に見ることができなくなった」というものがあるのではないかと感じます。
すなわち、あなたは「後悔」をするわけですが、でも、どうすることもできない末にやってくる「後悔」です。
こういったことを考えると、弔辞で何を話すべきかがおのずと見えてきます。
もし、今あなたが大切な友人をなくされて悲しみに暮れている(と同時に、弔辞で何を話そうかまとまっていない)のでしたら、一度、これからやってきたであろうあなたと友人との出来事を想像してみてください。
本当は、いっぱい楽しいことがあるはずだったんです。
だからこそ。