便利さって速度。
だからこそ、その対極にある「ゆっくりな不便」を謳歌できることは、現代に生きる人々にとって最高に贅沢で充足したこと、なのかも知れません。
昭和のような、という形容は、使い古されてすっかり手垢にまみれているようでいて、どっこいまだまだ輝きを失わない、いやむしろ近年ではより希求されるようになった、王道中の王道のような価値観になっている気がします。超高度な文明社会に暮らしていたって、人間の営みそれ自体は大昔と変わらない。誰かと出会い、結婚し、子供ができて、という家族単位の幸福感を求める、子供にはのびのびと健やかに育ってほしい、との願いは洋の東西を問わず現代においても、シンプルで強固な希望です。
そこで親御さんたちが願う。
昭和のような学校に通わせたいなあ、と。
SNSに昼夜追われ続けるがんじがらめなコミュニティの中にあって、はたまた速度という名の怪物とのデッドヒートに息せき切ってどうにか走り続ける生活の中にあって、今、「ゆっくりな不便」を欲することは、欲すること自体がはばかられてしまうくらいに手にするのが難しい、究極の贅沢に感じられます。
大空と大地にはさまれ、のんびりと雄大に日々を営む。
風に吹かれて、身を預けるようにして自然との共生を愉しむ暮らし。
まるで何かのキャッチフレーズみたいに並べ立ててみても、それだけでほっこりと憧れが立ちのぼる。そんな風に生きられたならどれだけ素晴らしいか、と多くの人が共感する。理想、というよりは、人間にとっての本来の生活スタイル、なのかも知れません、だからこそ響く。
ただそれらは、UターンやIターンに象徴されるような「田舎暮らしへの憧れ」に通ずるものであり、要は、都会に疲れ、都会で生活しなくともよい、と決断できる人々の理想であるとは思います。ほどほどに文明社会の恩恵も享受したまま、ある程度の便利さを手にしたままでのスローライフ、を想う時、
昭和のような、
って言葉が自然と湧いてくるのでしょうね。年号が平成になってもうすぐ三十年にもなろうかというのに、そんな時代のことなんて丸っきり知らないって人も多いというのに、老若男女問わず俄然、昭和への憧れが根強いってのは、社会全体が活気に満ちて時代がエネルギッシュに躍動し、その一方で人情や心根の深さにあふれた純然たるコミュニティが息づいていた、そうゆう人間本来の暮らしやすさを感じ取るからこそ、なのでしょうか。
学歴偏重や、上回り続けることばかりを求める経済社会のあり方そのものを見直し、「ゆっくりな不便」を根っこに据えた「これからの社会」を、そろそろ本気で考え、取り組むべき時期なのかも知れませんね。
昭和のような学校に通わせ、子供たちにのびのびと育ってほしい。
そう願わずとも、そんな暮らしぶりは当たり前のものになる、
すっかり取り戻している、
なんてことが案外、現代人にとって一番大切なことかも知れないですね。